オリンピックへの思い

BMXレースとの出会い

その思いを話す前に、前置きとして、 私がどのようにしてこのスポーツと出会い、どのような競技生活を送ってきたか話をします。
6歳の時、友人家族と体 験として私だけこのスポーツが面白いとお もい続けていたそうです(正確には始めたきっかけを覚えていません)。そしてこのスポーツのどこが 好きで、続けてきたかは私自身具体的な答えがすぐ出ません。
ありきたりではありますが、始めた当初はたくさん転び、手や足に傷をつくりながら、回りの先輩方の手助けに も恵まれ学校が休みの日は朝から 晩まで自転車に乗っていました。1年がたった頃に出て初レースでは予選落ちでした。負けては練習を繰り返す、これを続けて少しずつ成績が上がってい くことを感じ始 め練習自体が楽しくなっていきました。
器用な性格ではないので、何回も何回も乗り続け上 達し、レースで優勝するようになったのは3年がたった頃からでした。3年生で全日本選手権大会で優勝し翌年の世界選手権では、多くの国の同年代と走り、 世界には自分よりもこんなに 速い奴がいるのかと驚くとと もに悔しかったです。と同時に初めて‘プロ‘ の走りを目にし、自分も彼らのように自転車を手足のように 操りながら乗りたいと思い日本に帰国しました。
BMXレースは成人近くになるまで2歳刻みでクラス 構成されます。その頃から ひとつ上の年のライダーは成長期に入り、身長が伸び、パワーがつき始め徐々にレースで勝てなくなり 始め、 楽しいはずのレースが自分にとって苦痛になり、‘‘本当なら 俺がこんな 奴に負けることなんかないのに‘‘と泣く こと も多くなりました。父からの‘‘ここで 耐えれ ばまたお前が勝てるときがくるから腐らないで頑張れ‘‘の一言を信じ、練習を 続け自分も中学生になり体格が変わり 始め勝てることが増えました。

 

ケガとの闘い

そうなってきた時に、アメリカに拠点を置くチームの日本チームに入らないかと誘いがあり、それもあり、BMXの本場、アメリカに行くことになりました。

 

世界戦に出たころの自分よりも成長できていると思いながら臨んだレースでしたが、日本の10から20倍くらい多い人数のクラスで、その雰囲気に飲まれ何もできずに終わりました。帰国後、日本で負け知らずで練習をおろそかにしていたことを思い知らされ、 熱を入れ直し練習しました。

 

その頃から、知らず知らずのうちに成長期の影響を受け始め、自分の体をコントロールしながら乗れなくなり、ケガが続くようになりました。骨折をすると、早くても1か月は自転車に乗れません。

新潟県に住む私は11月から4月までは雪、雨の影響でコースで乗ることが出来ず、夏にケガをするとそのあとのシーズンを棒に振るような形になり、悪循環になっていました。

 

自分がケガで乗れない時期にほかのライバルたちはどんどん上達していく。焦りが自分を取り巻いていきましたが、昔の父の言葉を思い出し、今の自分にはなにができるのかを考えながら生活を送ることができ17歳の時にはエリートと呼ばれるプ ロクラスレベルの17-18歳が走るジュ ニアクラスで全日本タイトルを獲得することができました。

周りを気にすることなく自分の走りをすれば勝てると考えることができその通りになり、さらに自信を得ることができました。

 

しかし、その翌年に開幕戦で転倒し手首を骨折し、良いス タートダッシ ュを切ることが出来ませんでした。

 

迷い

知人から高校を卒業したら本場のアメリカに行くのはどうだと提案され自分もそう考えていたので、父にその旨を伝えてありました。しかし、シーズン初めの転倒で父から‘‘自分の状態も分からず転んでいるようでは向こうに行っても通用しないんじゃないのか‘‘と言われ、なぜかそのあとからアメリカに行きたいという思いより父に言われた一言が自分の中にずっと残り続けて結局アメリカに行く勇気が出ませんでした。高校卒業と同時お世話になったスポンサーとも別れ、父の勧めでスポーツ系の専門学校に進学しました。地元を離れたので、勉強が忙しく自転車に乗る時間が減り、ほとんど毎日乗っていたコースに月に2回乗れれば上出来というくらいになってしまいました。その分身体的なトレーニングをし、からだ本体の力はついてきましたが、技術面でほとんど昔の感覚を失っていました。入学した年はそれでもエリートの決勝には残れていましたが、表彰台に乗ることは一度もありませんでした。

 

渡米 Tangentとの出会い

その翌年は、レースには出ずそこで浮いた資金を貯め、来年から諦めていたアメリカに行こうと決めました。負けが続き、自分はこんなはずじゃない、1番速いはずなんだと、現状と自分の状況にジレンマを抱き、本場で自分の力を試したいと思ったのが渡米を決めたきっかけです。

それを以前に渡米を勧めてくれた知人に話すと、夏にアメリカに行く用事があるから、お前も一緒にどうだ、言ってくれたので2年生の夏、作った資料を持ちアメリカに行きました。

 

現地で資料を渡し帰国してから1か月くらいが過ぎたとき、いくら自分ではできると思っていても今成績のない自分に興味をもつメーカーはいないのかと思いながら過ごしていました。

さらに1か月が過ぎたころ、知らないアドレスからメール来ており、覗いてみると今のスポンサーのTangentがサポートしている家族のお母さんからというのが分かり、家に泊めてあげるということのメールでした。とても喜んだことを今でも鮮明に覚えています。

 

今のアメリカはビザなしで行ける最長日数は90日と決められており、4月から6月まで卒業した年に行ってきました。現地では、まだサポートライダーでなかった私をチームの社長、マネージャー、チームライダーとその家族が温かく接してくれたおかげもあり、すぐにアメリカでの生活にも慣れることが出来ました。慣れてきたころに社長に呼ばれ、俺のチームで走るかと提案されました。

その場では答えることができませんでした。なぜかというと以前は、直接的なサポートではなく間接的なサポートでしたが、今回はアメリカで知らない人はいない位、有名なメーカーの名前を背負いながらレースに出るということだったからです。もちろん成績が悪ければサポートがなくなると言われる世界で自分はやっていけるのかと悩みましたが、自分が何をしにここにいるのかと考えればこの誘いを断るという答えにはたどり着きませんでした。

 

レースを重ねるごとに決勝進出するようになり、周りのライダーにも興味を持たれるようになり、相手のほうから話しかけられるようにまでなりました。

 

再び日本のレースへ

そんな時に、2008年北京オリンピックから正式種目になっているBMXレースの、リオ五輪を目指さないかと日本代表監督から誘いがありましたが断りました。その当時の私には4年を捧げる覚悟ができなかったというのが本音です。

 

帰国してアルバイトをしてお金を稼ぎアメリカに行くというサイクルで2年ほど生活していると、日本でもレースをしないのかとTangentの社長に言われましたが、日本はレベルが低いからと、負けることを恐れていました。

 

3年目、ビザの都合で長期で渡米できなくなったことを機に、自社のパーツの宣伝目的で日本でもレースをするようになりました。何年も日本でのレースをしていなかった私を覚えている人は少なく、驚きながらもレースをするようになりました。

 

2017年の全日本選手権大会ではスタートダッシュを決め1位を獲れる可能性もありましたが、4位と望んだ結果ではありませんでした。観客からは、とてもいいレースだったよ、もっと日本でもレースしてよと私に声をかけてくれる方が多かったです。その時から自社のパーツを使ってくれるライダーも増えていきました。メーカーからサポートされるライダーは、ファンや自身のメーカーを宣伝し購入してメーカーに利益を生まないといけないと思っています。4位ではありましたが、その目的を達成できたと感じることができたと同時に来年はタイトル獲得を目指そうと決めました。

 

その後アメリカにも1週間くらいで行き来を繰り返していました。現地の人からも待ってたよ、帰国する頃にはもっと長くいてくれと声をもらえるようにもなっています。

 

新しい夢

そして、自分でできる最大限の努力をして臨んだ昨年の全日本選手権大会。ここで勝てなければ、競技から離れると決めて走りましたが、ゴール10センチ手前で抜かれてしまいました。

なんであと少し頑張り切ることが出来なかったんだと思いましたが自分のやってきたことに後悔はなくスッキリと競技から離れられると思い、知人たちに挨拶していると、多くの人に、ここまで来て辞めてしまうのかと言われ自分の中で心の隅に追いやっていたオリンピックという言葉が浮かんできたのです。

 

しかし、あと2年と迫っている上、通常のコースとは違いデザインが大幅に異なるので他ライダーより劣っている私は多くのコースに長い時間乗ることが必要になります。
4月にあったアジア選手権大会でも、他の日本代表強化選手と一緒に走りましたが、成績こそ良くなかったものの、確実に自分が勝てると手ごたえを感じれることもありました。

しかし現状アルバイトを週に5日しており到底不可能なオリンピック。そこで多くの助けがあればという思いがあります。

 

ほんの少しでもいいので、それが僕のモチベーションにもなります。適切な場所で適切な方法で努力すれば日本代表になれると信じています。

 

どうか私とオリンピックを目指しませんか。